小さな頃からずっといた、空が真っ黒に塗りつぶされたあと、自分の部屋に戻って、決して灯りは灯さないで。

月明かりの淡い光だけを頼りに、暗闇に浮かび上がる綺麗な黒い姿を見つけ出す。

ハルと同じ髪の色、黒い服、空と同じ綺麗な漆黒。

「ヒバリ、」

幼い声で呼びかければ、窓枠に手をついて部屋にやってくる。静寂の夜を楽しい時間に導いてくれる夢魔の化身。

拙く手を伸ばせば、その手を握ってくれる優しい手。

笑いかければ小さくだけど笑い返してくれる綺麗な顔。

膝に頬をすりよせて甘えれば、猫を撫でるように頭に手を乗せてくれる。

俯いた顔が影ってよく見えなかったけれど、それでも表情はうっすらとした笑みを浮かべていて、胸にガスが入り込んだようにとてもふわふわする感覚が心地よかった。

そんな彼を忘れたのはいつだっただろうか。

それすらも思い出せない。それが幼いと言う事なのだろうけれど、それを甘受するのはなんだか気分がよくは無かった。

 

 

 

「ハル。」

ハッとぼうっとしていた意識を覚醒させる。煌びやかなシャンデリアの光に、豪華な食事。食器はまるでオブジェのように美しく、食器としての機能などしなくとも人の眼に触れられるだけでその価値を見出してしまいそうになる。

テーブルクロスの上に、赤いワイン。お酒は飲めないけれどただの振りだけで置いてある。綺麗なワイングラスの曲線は女の身体を彷彿とさせる。

「ごめんなさいね、この子、緊張してしまったみたいで。」

「あら、いいんですのよ。かわいらしいわ。」

口元に手をあてて笑う艶やかな女を見る。赤いワインのような淡い色をした長い髪。妖艶な唇は艶やかに開花を待つ薔薇のよう。

「弟にはもったいないくらいだわ。」

その弟は横に仏頂面で座っている。

銀髪の髪は姉とは違う色素をしており、薄い色をした髪の毛はシャンデリアの光で反射してきらきらと光っている。

眉根に刻まれた皺の本数が、どれほど嫌なのかという事を如実に表している。

隣に座る母と談笑している隣で、当の本人たちは心ここにあらずと言った様子で会話に参加することは無く、そのまま初めて婚約者と顔を合わせた日は終了した。

相手方の城へ行っていたので帰りは更に時間が経過して真夜中だった。夕ご飯やお風呂はどうするかと聞いてくる侍女に、今日はもう寝ますと言ってハルは部屋に戻った。

灯りもついていない部屋の中。ふらふらと必然的に窓辺に近づき、窓際に鎮座するベッドの上に腰を下ろした。

顎を突き出して、汚れ一つない綺麗な窓から夜空を見上げる。

夜空は何年経っても変わらず、綺麗な星が輝いている。

瞼の裏側に焼きついた光の残像のような黒い光は見えない。ずっと奥にしまいこんでいた箱を開けると、思い出が苛烈にフラッシュバックするように、夜空に想いをこめたのに。

「ひ、ひば、り。」

舌足らずの子供じゃないのに、その言葉を出すのをためらってしまう。

掠れた声は広い部屋に響くことなく消えうせた。静かな真っ暗な部屋の中、月明かりのぼんやりとした光でやっと輪郭が浮き彫りになっているだけの不安定な空間。

「ひば、り。」

単語をただ言う様に、異国の言葉を紡ぎ出すように。拙く舌が動いた。

毎夜毎夜、確かめるように、ぽつりと朝露のように声を出す。

窓は開かず、月明かりを背にした漆黒が現れる事も無く。

秘めた記憶はただの夢だったのかと一人息を吐いてベッドにもぐった。

 

紅葉みたいな手のひらをしていたハルじゃないんですよ、ひばり。

 

眼を瞑り、届けと念じながら意識が夜闇に落ちていく。

寒々しいと足をすりつける。

 

もうすぐ結婚するんですよ、ハル。

 

 

顔を合わせたのはあのシャンデリアの下での会合だけだった。母とハルと、向こう側の姉と結婚相手の四人だけ。

近くにはコックやメイドなどがいたけれど、それは置物と同じで会話に入ってくる事無く、何か反応することも無い。ただ用がある時に呼びかけると意思のない人形のように近づいてくるだけ。

香ばしい肉のジューシーな匂いよりも、結婚相手がつけていた香水の匂いが気になった。あの匂いはなんだろう。

残滓となった鼻腔の香り。記憶をもっと呼び起こそうと瞼を下ろそうとした時、横にいる母が口を開いた。

「大丈夫よね?」

「何がですか?」

「色々よ。お嫁にちゃんといけるのかって・・・今更ですけど。」

くすくすと笑っているが、不安の色が見え隠れする。ハルよりも結婚という事実を重く見ているようだ。

「料理だってできますし、ちゃんと挨拶だって出来ますもん。」

「そうじゃないわよ。」

ちゃんと意味する事は分かっているけれど、わざと茶化してかわそうとした。

瞳の奥にある不安の色が見えたが、ハルは何も言わなかった。それを言葉として言葉を交わし合ってもどうにもならない事を知っている。

馬車の揺れに身体を跳ねさせながら、ハルはそっと眼を伏せた。

親子の交流よりも、不毛と哀愁が増幅してしまう事を恐れた。

愛も何も無い結婚をする。相手へ嫁ぎ、この城へは戻らない。

虚無感というよりも、本当にただ何も感じていない。結婚と言う重大さはもちろん理解しているし、嫁ぐと言う事は一生、その男、その城に縛られるという事だ。

だけど人間は順応性が高く、もしかしたら相手の男を愛するかもしれない。幸せを手に入れられるかもしれない。

大きな不安は感じず、楽観的にただ感じている。時間が経つにつれてもうすぐ両親からも離れる事になるのは、やはり悲しいと言えば悲しい。

社交界で会ったとしても、気安く話しかける事は出来ない。抱きつくことも笑いあう事も。堅苦しい言葉で遠まわしに意思疎通をしなければいけない。もうハルは両親のいる国の人間ではないからだ。

「ハル、お父さんとお母さんが大好きです。」

父や母。お父様とお母様。王と王女。

きちんと立場をわきまえた呼び方をしていたけれど、初めてただの一人の女の子として両親を呼んだ。

お互いに悲壮感は出さないようにしていたけれど駄目だった。涙が滲んでいたのを見て見ぬふりをした。

吐き出した思いは白く濁って掻き消えた。

 

結婚一か月前に、もう一度結婚相手と会った。やはり銀色は光に反射して眼に悪い。

眉間に刻まれた皺は顔の綺麗なパーツを台無しにしている気がする。全てを拒絶するような鋭い眼光。

燃え上がる炎のような、愚直なまでの一直線。

二人きりになった応接室で行儀悪く机に足を投げ出している。

年が明けた頃には、この人の妻になる。

「・・・こんにちは。」

「・・・・・」

「いい、お天気ですね。」

「・・・・・」

「今日はお日柄もよ・・・く・・・・」

ずっとハルを凝視したまま何も言わない。作った笑顔も剥がれ落ち、口元がひくひくと痙攣する。

重苦しい沈黙が広い部屋に振り落ちた。分厚く豪奢な扉の向こう、もしくは壁の向こうには母親と結婚相手の姉が談笑しているのだろうか。あの二人仲良くしているかしら。なんて笑っているのだろうか。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

それなのにこんなにも会話も音も無く、重たいだけの空間にいるだけで、交流も何もあったものじゃない。

そわそわと手元を握ったり緩めたりしていると、結婚してからもこんな空気になるんだと思うと初めて戦慄した。

一番怖いのは初夜だと思っていたのに、それと同じくらいに恐ろしい。痛みと精神を責め続ける生き地獄になる。

そっと瞼を下ろして想像した、何の言葉も交わさずに床に入る様子を。

なんて仮面夫婦。

政略結婚なんて元々そんなものか。

「おい。」

「、はい。」

「・・・・」

「・・・・」

それきり会話は無かった。初めての彼からの邂逅はそれだけだった。ハルの瞳と絡まる事のない視線はずっと違う方向を向いていて、何か言いたげだったのだが何も言わなかった。

更に居心地が悪くなったハルは俯いて、ただ母親達が来るのを待った。

 

「隼人。」

「んだよ。」

と、帰り際に聞こえた。

姉の美声に答える投げやりな返事。そこでやっと彼の名前を再認識した気がする。

後はそのまま手を引っ張られるようにしてその城を立ち去った。馬車の中で彼の名を呼ぶ女の声を反芻した。

すれ違った時にまた匂いがした。とても心地のいい匂いが。

 

 

最近お父様と会っていない。と、唐突にハルは思った。よく外に出かける際、はっきり言えば隣の国に入国するのはいつも母とだった。それに不満があるわけじゃなく、そして何故父が来ないのだと憤っているわけでもない。

ただ親子として、王と姫という立場よりも前に自分があの人の子供で、会話をしていないというだけ。

「あの、おと・・・王は城に居ますか?」

「いいえ、今国を出られております。」

「隣の?」

「姫様が嫁がれる国とは別の、ですが。」

「そうですか、ありがとうございます。」

近くに居た使用人の一人に問いかけると父の不在を教えてくれた。もうすぐ夕暮れだ。気がつけばもう夜になる。

そんな感じで、気がつけば嫁いでしまって、もう話す事も出来ないのだろうか。

大きな窓の向こう側、黒い山の影に隠れようとしている橙の光。おぼろげに揺れているその様子は、まるで水面に波紋が広がったようだ。

長い廊下を歩いていると、メイドがハルに気がつき頭を下げてくる。自室へ戻るとベッドに小走りで近づいて倒れこんだ。

もうすぐ夕ご飯、もうすぐ夜。父は今日は帰ってこないのだろう。

母と二人の食事、嫌というわけじゃないけれど、人数は多い方がいい。どうせなら使用人も一緒に食べないかと誘おうか。

委縮して味も分からず固まってしまうのだろうけれど。

「・・・ひばり。」

シーツに頬を擦りつけながら虚無感だった胸に何かが埋まっていくのを感じた。それは重みを増して行き、やがては重荷となる。

指先でシーツを引っ掻きながら歯をきり、と鳴らした。

子供だけにしか見れない妖精みたいなものだったのだろうか。呼んで現れるのは純粋なあの頃だけなのだろうか。

政略結婚をさせられそうになる惨めなハルの手を握る事すらできないのか。

太陽の光が地面に細長く映しだされている。オレンジ色に染まった部屋の中でハルは静かに息を漏らした。

ざわざわと木々が揺れる真夜中、決まってやってくるのは月の夜な気がした。

今思えばとてもロマンティックな人だったんだとくすり、と笑った。

 

 

 

ぶつ切り更新。とても珍しい。

これだけ待たせてしまったのですから、せめてもの・・・

 

でもクオリティが落ちたら意味無いですよね。元々ありはしないのですが・・・orz

 

さっさと終わらせたいけど・・・