がちゃり、と音が鳴る。
「はへ・・・」
睫毛をぱたぱたと揺らしながら見慣れない天井を見上げる。そしてゆっくりと顔を横に向けて視線を滑らせる。見たことのない、場所。
ゆっくりと身体を起こして部屋の中を見る。見慣れない、見た事、無い場所。
けど、
もう一度ベッドらしきものに身体を預ける。鼻先をすりつけると知っている香りがしてくる。途切れた記憶の糸先を手繰り寄せたような気分になって、焦る事は無いのだと息を吐いた。
そして再度またがちゃり、と近くで音が鳴った。シーツが擦れる音では決してないし、外からしている訳でもない、この部屋の中、今動くものは自分自身しかいないというのに。
おそるおそる、脳裏にずっとよぎっていた銀色の可能性に眼球をゆっくりと動かして手首を見下ろす。
そして足首にも纏わりつく冷たく硬い氷のようなモノ。
「・・・・・・」
さあ、と血の気が引いて行く音が耳元で聞こえた。いや、まさかと思いながらももう一度部屋の中を見渡す。生活感が全く感じ取れない。感じ取れるのは匂いだけ。
雲雀。
10年ほど会わなければ、人もそれなりに変化を遂げる。吸血鬼は肉体的変化はまったく見られなかったけれど、中身の変化は眼に映す事は出来ない。
透視能力の無いハルはもちろん、はっきりと眼にすることは出来なかったけれど、
「そんな・・・」
でもまさかこんな事を、
いや、吸血鬼は人を襲い命を奪う。ライオンを調教して仲良くなった気になっていたとしても、野生の本能を一瞬にして牙としてむき出しにして屠る。
人間の一方通行の想いは、人間以外には伝わりにくい。
人間同士も伝わりにくいというのに、他の生き物と心を通わせる事などできるのだろうか。
じゃら、じゃら、と、僅かに四肢を動かしてその音を確かめる。鎖がシーツの上で蠢く様子はまさしく現実だった。
鎖は思いのほか行き場を失っているように長く蛇のように畝っていた。ベッドから降りようと、鎖を鳴らしながら足を地面につける。床の冷たさに、靴を履いていない事に気がついた。だがすぐベッドの近くに置いてあるのを発見し、足を入れた。履きなれた感覚につま先が放つ音はとても違和感があった。
部屋の丁度真ん中の延長線上にドアがある。その正面にベッドが置かれていて、ギリギリドアに行ける距離だった。
ドアの前に立つと、少し緩みが残った鎖が床を這いつくばっていた。古びた音を立てながらドアを開けると、古びた廊下が連なっていた。
顔をひょっこりと出して左右を確認する。ドアを一歩踏み出した所で鎖がまっすぐに伸びて床から離れる。
仕方なくハルはドアを閉めてベッドに腰掛けた。窓の外を見る。日の光があまり届いていないのか、森の緑が黒々と生い茂っていた。
あまり見慣れない鎖に視線を落として、足をぶらぶらと揺らす。重みがあるけれど、僅かな鎖のじゃらじゃらという音が無音の中に響く。この音に誰か気がつけばいいと思った。ハルを助けに来てくれる人か、ハルの知っている雲雀か。
「起きたの。」
念じていると本当に来てしまった。
来てしまったなんて思っている事に気がつき、眼の前の部屋の主に探るような視線を向ける。
鋭い眼光に見えるのは、ハルの心が淀んでいるからなのか。つい顎を引いてしまう。
「・・・あ、あの・・・」
「それ、はずそうか?」
「ほぇ・・・?」
何のためらいも無く枷をはずす雲雀を見下ろしながら眼を丸くする。重みがとれたいつもの四肢はとても軽く、自由のオーラを纏っていた。
「・・・」
「おいで。」
柔らかい声だとハルは思った。もしかしたら違うかもしれないけれど。
エスコートするように手を取られ、ベッドから簡単に腰を上げて歩き出す。水中のように重力を感じない。たったあれだけの枷をはずしただけなのに。
いつもの靴も軽く感じる。それなのに、纏う空気はとても重い。重いというか、動きにくいのだ。
眼が覚めたら鎖で繋がれていて、雲雀がきて、簡単に外して、手を取って歩き出している。真っ黒な後ろ姿と後頭部。見えない表情が何を考えているのか読み取る事を拒絶する。
「雲雀。」
「何?」
立ち止まる事無く返事をする。
「ひばり、」
「だから何?」
棘は無く、拙く呼べばその声の音で返してくれる。幼い頃にひばりと呼べば、その声音で返してくれたように。
「会いたかった、ですよ。」
「忘れてたくせに?」
「・・・でも、会いたかったんですよ。」
「ふうん。」
「・・・雲雀こそ、忘れてたんじゃないですか?」
「うん、最近思い出した。」
「えぇ!?」
そんな会話しか飛び交わない古びた廊下。ベッドからしか見ていなかったけれど、此処は二階らしい。手を軽く触れられているだけなのに、磁石に引っ張られるように手が優しく触れている。
言葉の数だけ、纏わりつく空気が軽く感じた。
「何処に行くんですか?」
「外。」
「・・・外にでて、どうするんですか?」
「・・・光合成させる。」
「ハルは植物じゃないですよ?」
「うん。知ってる。」
それに此処、あんまり日差しが届かないしね。と続けた。本当に光合成をさせる気だったのだろうか。
古びた大きな扉を開けて外に出る。森の匂いが鬱蒼とひしめき合っていた。
今出てきた建物を見上げると、壁に蔦が絡みついて二階まで浸食していた。ぽつねんと一つだけ、こんな自然の中にある大きな屋敷はとても異様なものに見えた。
「助けてあげたよ。」
「・・・はい。」
添えられただけの手がぎゅう、と握られた。何かをおねだりする様に、はずした枷の変わりをするように。痛いと思った。でも同時に暖かいと思った。
「何が、欲しいんですか?」
そういえば、雲雀は何かが欲しいと言っていなかった事に気がついた。血が欲しいとも、命が欲しいとも何とも言わなかった。それになにより、雲雀はそれなりに血を定期的に吸っているようだし。
報酬を要求はしてくるものの、それが美しい宝石なのか、絵画なのか、いや、もしかしたらもっと違う、山の奥にある伝説の、とついているようなものなのかもしれない。
「何だろうね。」
子供のように細い髪の毛が、木々の隙間を抜けてきた風で舞っていた。
こちらを見やる雲雀の瞳が狙いを定めたような色を一瞬だけ見せて、すぐに空虚な雲のような色がどんよりと蠢いていた。
「僕は何が欲しいんだろうね。」
心の底から分からない事を、種族の違う小娘のハルに問いかけた。
小首をかしげる事無く、ただまっすぐに言葉を発した。瞳は逸らされない。手も放してもらえない。
ちらちらと陽炎のように住みなれた城の映像が闇の中で揺らぐ。
自然の音が耳元でごうごうと鳴る。雲雀の瞳を見て、感覚的に去来した空虚を感じながら口を少し開けたまま、馬鹿みたいに理解した。
「帰りたい?」
話の流れなんてまったくお構いなしに、今度は小首を傾げて訪ねてきた。小首を傾げて何かを尋ねる時は、いつも何かを試されているようにしか感じなかった。
それに首を横に振ったのは、試されていると分かった故の虚勢なのか、心の底から帰巣本能が根こそぎ消え失せたからなのか。
これで終わると、思ってたんだけどな・・・