乏しい。

金が欲しいわけでも何か食べたいわけでもない。

ただただ乏しい。

「きっとそれはネガティブというアレです。」

「・・・は?」

突拍子も無く人差し指を立てて自信満々に僕にそう言った。

「うーん。ネガティブというものはですね。マリッジブルーに似たアレです!」

「なったの?」

「少しだけ・・・」

「ふーん。」

初めて知った事実に思わず色々と突きたくなるのだが、言葉としてしか知らないその感情の名前とその対処法を結婚してから一年、ずっと妻として傍らに居続けるハルに聞かねばいけない。

「それってどうすればいいの。」

「どうって・・・それを簡単に処置できるのなら、この世の中は安寧を保ち続けられますよ。」

ハルのいう事は尤もだと思う。でも、ネガティブ思考に陥る人間は自分の劣等感を誤魔化しているにすぎないと思っている僕には、どうしようもない。

嫌な気持ちを言葉に出してみて下さいと言われたので、ぼそりと漏らす。

「面白くないんだ。」

「そうですか・・・」

「何にも楽しくないんだ。」

吐きだす、という言葉は相応しくない。

しくしくと無く女々しい女みたいな吐露だった。眼を閉じて暗闇の中に居ても気分はよくないし、眼を開けて蒼い空を見上げてもなんの感慨もわかない。どんどん落ちていく。

乏しい。侘しい。

何故こんなにも空虚なのか、どうしてこんな空っぽになってしまったのかすら僕は分からない。

「・・・すごくムカツク。どうして僕がこんな気持ちにならなきゃいけないの。」

「うわあ、すごい理不尽です!」

「君もムカツク」

「はひ!?とばっちりです!」

畳の匂いと開いた障子の向こうの青と緑。縁側にかけられた風鈴の静かな音色。

これを感じて心地よい睡眠に落ちるのが日課だというのに、こんなわけのわからない病気みたいなものにかかって、折角の休日が台無しだ。

はぁ、とため息を吐いて起き上がる。ハルも一緒に立ちあがり僕の後をついてくる。

「何処か出かけようか。」

「いいですよ、恭弥さんお疲れみたいですし。」

何時もなら尻尾が切れそうなくらいに喜ぶ犬みたいに肯定するのに、今日の僕の機嫌を窺ってそれを断った。

それが更に不機嫌を後押しした結果になるとはハルは分かってなど居ない。

「いやだ。」

歩く廊下も景色も我が家だというのに、どうしてこんなに苛立ちや負の色を帯びているのだろうか。玄関を出て外に出る。容赦ない日差しが僕の頭上に襲いかかる。

ハルが後ろから帽子を持ってきてつま先立ちになって僕にかぶせた。

ネガティブ、という横文字に僕は今支配されていた。何がどうしてこうなったのか、前兆なんて微塵もありはしなかった。

隣を歩くハルも帽子をかぶっていた。僕がかぶっている帽子が一体何なのか分からない。彼女は麦わら帽子をかぶっていた。

「こんな状態で日射病とか脱水症状とかになったら、それこそ絶望ですもんね。」

「そんな柔じゃないよ。」

「学生の頃、風邪を拗らせて入院してたじゃないですか。」

くすくすとハルが楽しそうに笑う。その笑顔を見て、そしてその言葉がきっかけで思いだした。

感傷に浸るわけではないけれど、今は遠いあの校舎。僕が毎日巡回していた並盛の街。廊下、学校の匂い、応接室、鳥の音の外れた歌。三浦ハルの笑い声。

いつもいつもへらへらしているイメージしかない三浦ハル。

先ほど初めてきいたマリッジブルー。それが今の僕の気の重さと一緒なのかどうかは分からないけれど、僕はそれに気がつかなかった。

結婚式で着物を着ていた時も、ウェディングドレスを着てた時も、結婚前日にホテルで一緒に寝ていた時も、そんな不の感情なんて微塵も察知することが出来なかった。

「うん。そうだね。」

髪を切ったのは僕がプロポーズした後だ。もしかしてアレにも何か意味があったのだろうか。

その時の僕はそう感じたけど、いつも通りへらへらと笑ってイメチェンですー。と言っていたハルに何も聞くことは無かった。

「・・・大丈夫ですか恭弥さん・・・本当にネガティブになってます・・・」

「本当にって何。」

「あ、いえ、本格的にという意味です!・・・ど、どうしましょう、恭弥さんが・・・恭弥さんが!あの恭弥さんがネガティブってもしかしてものすごい事なのでは!?」

「まるで人を血も涙もないような人間みたいに言わないでくれる?」

「だって恭弥さんいつも余裕綽々としててムカツクんですもん。」

「君がいつも余裕が無いだけでしょ。」

ハルは自分の矜持をいつも振りかざす癖して、今日だけは、今だけはそうはしなかった。

いつも通りの笑顔でいて、僕が初めて感じた感情の名を自慢げに告げたあの空気は無くて。

それを欲している僕に気が付いてくれないなんて酷い子。

でも、僕がハルの何かに気がつかなかった事が普通なのだと、何も分かっていないハルにそう言われたようで少しだけ気分が楽になった。

気落ちしているととても怖い。

精神に住みついた菌が僕を飲みこもうとしているみたいで。

「ハル。今日僕はとても不安定なんだ。」

「知ってますよ。分かってます。」

「だから今日はハンバーグとメンチカツがいいな。」

「えー!?・・・もう、仕方ないですねぇ。今日だけですよー?」

まあ、材料は同じくミンチなんだから別にいいでしょ。と言えば怒って家に戻ってしまった。そして片手に財布を鷲掴みにして、大股で僕の横を通り過ぎた。

 

「出かけないんじゃなかったの。」

「夜ごはんが変更になったので買いに行かなきゃいけないんです。誰かさんのせいで!」

「今日は優しくしてよ。」

「・・・なんかネガティブですごく我儘になってません?」

「たまにはいいね、こういう日も。」

「よくないって言ってたじゃないですか・・・あ、つっかけで行くんですか?靴に履き替えた方が・・・」

「いいよ面倒くさいから。ほら、行くんでしょ?」

「う・・・なんだかすごく損した気分なのは、ハルもネガティブになりそうだからなのでしょうか・・・」

「そうかもね。」

僕は時々無性に僕は人間なのだと思う時がある。

それが今かどうかは誰にも言う必要はない。

 

 

 

 

スランプ脱出のためにまず最初は書きやすそうなものから手をつけてしまいました・・・

あれ、これってただの鬱ネタなほのぼのじゃね?

ちょっと後でもう一度リベンジします

 

 

 

title 泣殻