意識が覚醒していくのが分かった。
身体の中で沸騰している何かが、しゅるしゅると落ちていくような。
頬の熱さに、もしかして熱でも出ているのかと思って、重たい瞼を上げた。
そこには白い天井が見えて、鼻腔を擽る薬品の匂いが何処か他人事のように思えた。
「眼を覚ましましたよ!」
と、白衣を着た人が叫んでいた。
部屋から出て、廊下に大声で叫んでいた。
その記憶が私の中で一番古いものだった。
その後はよく分からないまま時間が流れていっていたけれど、自分が記憶喪失で、周りの人間が右往左往している姿を他人事のように見つめていた。
自分は、三浦ハルという名前らしい。
自分の名前も忘れてしまっているとなると、それは相当酷いと医師が言っていた。
シャーペンを渡され、芯を出してくれといわれたので、カチカチと普通に出したり、箸を渡されて、お茶碗の中に入った豆を、こっちのお皿にうつしてくださいだとか。
日常生活に支障を来す事は無いという事が分かり、ただ私は記憶が無い女となった。
白いシーツを握り締めて、周りに知り合いが居ないという不安や、自分の過去がない絶望。そして心配そうに見やる人たちが本当に心配しているという事が分かる為に、思い出せない申し訳なさ。
「ごめんなさい・・・」
「ああ、いいよ謝らなくて・・・」
薄色をした男の人が笑ってそう言ってくれる。
だけど最初眼が覚めた時に駆けつけて、貴方は誰ですか?とたずねた時のあの顔は忘れない。
それを思い出しながら手元を見つめていると、それを見透かしたように優しい声が降り注ぐ。
「気にしないで、遠慮もしないでよ。俺とハルは友達なんだから・・・」
「・・・ありがとうございます・・・綱吉さん。」
「ツナでいいよ。ハルはツナさんって呼んでたよ。」
「ツナ、さん。」
声に出すと、何故かすとんと何かが身体の中で埋まった気がした。
本棚の中にあった本を入れなおすと、隙間無くぴったり入ったようなそんな感じがした。その本棚のイメージは自分の部屋のものか、それとも記憶を失う前にどこかで見たものかもしれない。
「調子はどう?」
「あ、おかげさまで大丈夫です。」
「そっか。よかった。」
頭に巻いた包帯を触ろうとすると止められた。素直に手を下ろして、自分はどうして怪我をしたのかという理由を考える。
ツナさんは階段から落ちたんだ。と言っていたが、どうにも納得が出来ないでいた。真っ直ぐにツナさんの瞳を見たけど、違和感が伺える。
何かを隠しているのだろうか。それとももっと詳しい事を話して欲しかったので、ただ一言で済まされた事に腹を立てているのか。
それにしても、この人はよく来る。
眼が覚めた時に一緒にやってきた銀髪の人が、ツナさんを十代目、と呼んでいた。
一体それがどういった意味なのかはよく分からないが、あだ名ではなさそうだった。その人は本当にツナさんを尊敬している視線を向けていたので、そんな人があだ名で呼ぶわけがないと思った。
「ツナさん。」
「何?何処か痛い?」
「いいえ・・・あの、私はどうして階段から転んだのでしょう。」
右腕に、切り傷があった。
それは結構大きくて、階段から落ちた時に何かで切ってしまったのかと思ったが、多分違う。
これはツナさんに感じる違和感と、勘としか言いようが無い。根拠の無い推測だけど。
医療の知識はまったく無く、欠落しているだけなのかもしれないけど、これはナイフとか、そう言ったもので切れたものだと、思う。
階段を下りている時に、包丁やカッターを片手に降りて、転んで、きったのかもしれない。
そっちの可能性のほうが高いけれど。
「・・・どうだろう。俺はその現場を見てたわけじゃないから・・・」
「・・・・・・」
ずっと聞けずに居た質問を、なるべく何でも無いような抑揚で、ツナさんから視線を外して聞いてみた。
あけた窓から風が入ってきて、ふわりと舞い上がった。
それと同じくツナさんの髪も揺れていたのを横目で見た。
やっぱり、ツナさんは知っている。そしてそれを言わないで居る。
何か隠し事をされていると言うのは、気分がいいものじゃない。・・・でも。
退院した。
頭の包帯はそのままで、切り傷の治療もされていた。腕についているふっくらとしたガーゼを撫でて、高級リムジンを運転する運転手の後頭部を見た。
見たことも無い人というのは、五日前に体験したけれど、その五日間で顔見知りが増えている今は、少しだけ不安。
最初の漠然としたものではないけど、それでもそこにある不安は、きっと行き先のせいでもあるんだろう。
ツナさんは優しい人だった。
でもツナさんは仕事をしているから、こんな真昼間からわざわざ休んでまで一緒に家に帰ってくれはしない。
そこまで迷惑をかけたくないとも思っていても、行き先が自分の家だと分かっていても、それでも記憶がなければ見知らぬ土地だ。
膝の上で手を握って、見覚えの無い景色を巡る。
何の会話も無いまま車は止まり、多くない荷物を手にとって出てみると。そこは想像していたものとは大きく違っていた。
「はひ・・・」
ぽかんと口が開いたまま閉じない。運転手はそのまますたこらさっさと帰ってしまったのにも気がつかず、ただこのお屋敷、と呼ぶにふさわしい家の門を見上げた。
私、三浦ハルは一般家庭で育ったと聞いた。
それなのに、これは何だろう。
あたりにある家とはまったく違う。孤立したこの家は、本当に、私の家?
いろんな事に驚き、躊躇していると、扉が開いた。
着流しを着た綺麗な男の人が居た。
「・・・・・・」
「・・・あの・・・」
「・・・・・・」
「・・・三浦、ハルです・・・」
「知ってる。」
見た目はとても綺麗な人なのだけれど、何処と無く危ない香りがする。
人を見た目で判断するな、という言葉が脳裏を掠めた。だけど、この人ならば第一印象は綺麗な人。でも、表情でも言葉でもなくて、ただ警報が鳴っている。
記憶の奥底に何か切り傷があって、それを撫でられているような。
そんなあやふやで、でも確かに感じている痛みがそこにある。
どうしよう。
「・・・初めまして。」
とりあえず挨拶だけはしておかなくちゃと頭を下げると、背筋に冷や汗が伝い落ちた。
ゆっくりと頭を上げると、危険な色をしていた瞳が、表情が違ったものになっていた。
殺意やら狂気やらが混ぜ込まれて凝縮されて、それを薄い膜で隠したような瞳が、いっぱいに詰った本能が消えうせていて虚無感に満ちていた。
まるで親に捨てられた子供のように絶望したような顔をしていた。でも先ほどよりは、という話。
ほんの少しだけ表情筋が動いていた、というだけなのだけど、私はそう思ってしまった。
「え・・・」
思わず声を出すとすぐに顔を背けて、そそくさと家に入っていってしまった。
「あっ」思わず手を伸ばすが、既に彼は家の中。門の向こうの飛び石を挟んだ引き戸は既に閉まっていた。
本当に、此処は私のお家なのですか。貴方は誰なのですか。
いろいろと、本当にいろいろと聞きたかったことはあった。もしかして血縁者かもしれない。という可能性はあったのだが、本能的にそれはないと思った。
「・・・どうしましょう。」
三浦ハル、自分の名前しか分からない記憶喪失者はただ佇むだけなのでした。
部屋の中に写真たてがあり、その中に自分が笑顔でうつっているので、此処は本当に三浦ハルの部屋なのだと分かった。
薄暗い部屋の中、畳のいい匂いが充満している。とても安心するのは日本人ゆえだからか、それとも無くなった記憶が古傷のように疼いているからなのか。
電気を付けると、そこには箪笥があった。
自分のものだとは分かっていても、記憶が無くなる以前の自分というものは、もはや別人のように思えて仕方が無い。
「ごめんなさい。」
一言呟いて、そっと引き出しを開ける。引き出しには服や下着、印鑑に通帳があった。
普通の引き出しの中身は、記憶を引き出すことは出来なかった。
「・・・あの人は、何か知ってるのでしょうか・・・」
此処は、三浦ハルが幼き日から生まれ育った家ではないらしい。そう聞いたのはあの着流しの男、ひばりきょうや。という男からだった。
君は秘書だった。この家で住み込みで働いていた。家政婦みたいなものだった。
甘いものが好きだった。かわいいものが好きだった。よくあの飛び石に飛び乗ってはしゃいでいた。
縁側に座って仕事をよくサボっていた。よく口答えをしていた。料理の腕は、まあまあ。
私の知らない三浦ハルをこんなに話してくれたのはひばりさんが初めてだった。ツナさんはよくきて話してくれるけど、それは自分の事だったりまわりの人の事だったり。
その会話の中で出てきたひばりという人は多分この人なのだろうと思う。
何もたもたしてるの?と傍若無人な事を言って私を家に入れたあの人は、ツナさんの話を聞いていて直ぐに分かった。
とても恐い人だ。と言っていたので、その言葉にぴったりと当てはまる。
そのとっても恐い人の所で住み込みをしている事を、どうして教えてくれなかったのだろうか。そしてどうして車に乗せた時行き先を教えてくれなかったのだろうか。
まぁ、それは今となってはどうでもいい事なんですけどね。
「あ、こんにち、は。」
廊下を歩いていると、リーゼントヘアーの男の人とばったりと会った。
スーツ姿なのでもしかして仕事で来ているのだろうか。
「三浦さん・・・」
「え・・・・」
この人も自分と、三浦ハルと知り合いなのだろうか。頭の包帯を痛々しげに見つめるその視線は、親しかったのだろうか。
「恭さんはいつもの部屋に・・・あぁ、此処をまっすぐに行って右に曲がった所にある部屋に居ますよ。障子が開いていると思うので、大丈夫だと思いますよ。」
「え、あ・・・ありがとうございます。」
どうして、私があの人の所に行きたいって分かったのでしょうか。
きょうさん、って呼んでいるのならば、あの人とも親しい人なのかもしれない。仕事の関係者。それともただの友人なのか。
この人の見た目的には友人という関係はありえない。そしてあのひばりきょうやの雰囲気からもそうとは思えない。
というより、あの人に友達は似合わない。
と、いうのが本音なのですけど。
「あの・・・」
「何か用?」
そんな事を思いつつ、言われたとおりに歩いていると見慣れた後姿があった。
・・・・・。
あれ。
どうして今見慣れた、なんて思ったんだろう。
初めて会ったのに、しかも後姿なんて自分の部屋に案内される時にしか見たことが無いのに。
ずっと振り向かずに何かを読んでいるひばりきょうやさんは、話を聞いてくれるようだ。
「えっと・・・私の、記憶についてなんですけど。」
もっと教えて欲しいんです。
なんておこがましいかなと思いつつ、言葉を出し損ねていたら、ひばりきょうやさんの肩がぴくり、と動いて、こちらに顔を向けた。
何か焦っているような、焦燥感に駆られたように私を見る。
「何か思い出したの?」
「あ、いえ、そうじゃなくて・・・」
声は普通だけれど、違和感は表情に出ていた。
「おなかでもすいた?」
「そ、そうじゃなくって・・・」
埒が明かないと、三浦ハルについて詳しく話してください!と大声で言うと、ぽかんとしたように眼を見開いたひばりさんが、今日始めて笑顔を見せた。
笑顔と呼ぶにはあまりにも素っ気無いものだったけど、口元が緩んだので、それは笑顔だと思う。
「そんな事考えてる暇があるならご飯でも作ってくれる?」
表情と言葉がまったく天邪鬼で、ひばりきょうやという人間と、どうして三浦ハルは居たのだろうかと疑問が浮かぶ。
今の自分の性格と、記憶を失う前の三浦ハルの性格はもしかして違うのかもしれない。
料理なんて、作れるのだろうか。
記憶を失っている、それは過去にあった事を忘れている。ひばりさんに料理を作った事も、その作ったもの、好きなものも分からない。
そして何よりレシピが分からない。いや、頭の中にはちゃんと調理方法が残っている。だけどそれがちゃんとした味を保障できるものなのかどうかは今の私では判断が出来ない。
だからと言って、それを説明しても頷いてくれなかったひばりさんにはまったく関係のないことで。
右手にフライパン。そして左手にお玉を持ち、はぁ、と溜息を吐いた。
「やるしか、ないですよね・・・」
記憶が無くなっていようがそうでなかろうが、仕事にはまったく関係のないこと。
もしレシピが違っているというのならそれはその時にどうにかすればいい。ネットで調べるなり本で調べるなり。
雇い主に出す前に味見をしてみれば簡単だ。
とりあえずセオリーとして味噌汁から作ってみよう。そこからどんどんレベルをあげていって見れば、多分、大丈夫、だと思う・・・。
味噌汁を作って、おそるおそる味見をする。おいしかった。
大体味噌汁なんてものは殆どが味噌で形成されていて、味噌を溶かした汁だ。美味しくて当たり前だ。
次はハンバーグだ。どうしてハンバーグになったのかは分からない。別に肉じゃがでもカレーでもいいと思ったのだけど、何となくハンバーグを作りたかった。自分が食べたいだけなのかもしれないが。
無心で作った。無心だけじゃ料理は出来ないので、あまり考え事をせずに、頭の中にあるレシピ通り、機械的に作っていった。
そして味見をしてみると、私の舌がおかしくなければおいしかった。普通に。
それを待っていたひばりさんに持っていった。
「・・・・・・」
静かに睨みつけるように見下ろした
「ハンバーグ・・・」
「はい、一応は・・・」
ひばりさんは返事をしなかった。もしかして独り言だったのかもしれない。口を閉ざして、味見はしてみたものの、おいしいと思ってくれるような味なのかは保障できない。
一口食べて、意見があったらこの場で言ってもらいたいので直立不動のままひばりさんを見ている。
見られながら食べるのはいい気持ちはしないだろうと思いつつ、視線を逸らしたりするが直ぐにひばりさんに向ってしまう。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・どう、でしょうか・・・」
「・・・・・・・・」
ひばりさんは眉根を寄せて、一口食べたハンバーグを完全に睨んでいた。おいしい。という顔ではないので、やっぱり味覚がおかしかったんだと顔色が悪くなるのが自分でも分かる。
本能的な恐怖というものは初めて感じるものだった。
記憶が無くなる前に感じたのかもしれないけど。この人から。
「ひ、ひば・・・」
「おいしいよ。」
ずっとハンバーグを睨みつけたまま言われても説得力が無い。
「おいしい。」
「・・・・・・」
けど、この人はこういうお世辞を言うような人じゃない、と思う。今日初めて会っておきながら何を言うのかと思うだろうが。
無くなった記憶が燻っているのが原因かもしれない。この人はそう言う人じゃない。分かってる。そういう記憶があったんだ。
引き金を引くのはこういう、なんでもない些細な事からなんだろう。
日常を生きていて、違和感を感じたら記憶は簡単に蘇るかもしれない。
「・・・レシピ、でも見た?」
「え・・・?」
「っていうか、記憶喪失っていうの嘘だったりするの?」
立ち上がったひばりさんに見下ろされて困惑する。思わず後ろに一歩二歩下がった。
「レシピって・・・いえ、なんとなく作って・・・」
「ふうん。」
壁が背中にぶつかり、あ、と思ったときには、ひばりさんの片手が壁についていて、視線でも身体でも全部動けなくなってしまった。
そらすことも恐くて、ひばりさんの目をずっと見続けていた。
ひばりさんは何かを確かめるような、探るような眼をしていた。恐い。
「本当かな。」
「っ・・・・」
記憶喪失は本当だし、こんなに責められて怒ってもいい、くらいだと思うけれど。
それでもこの人のオーラというか気配というか雰囲気というか、それら全てが私に集中攻撃をしかけてきていて、動けないしゃべれない反論できない逃げられない。
綺麗な顔をしているからこそ、凄んだ顔はとても恐い。
「・・・まあいいけど。」
あっさりと退いたひばりさん。また席について箸を持ったひばりさんがこちらを見てくすり、と笑った。
「すっごい顔。」
その笑顔が綺麗過ぎて恐かった。
リーゼントの人は草壁さんというらしい。自己紹介をされて、いろんな意味で火照った頬を冷やす為にお風呂場へ行けと言われた。
いつの間にか茜色の空は消えうせそうになっていて驚いた。そこまで料理に時間が掛かっただろうか。それとも部屋に居た時間が長すぎたのだろうか。どちらとも時間は短かった気がするけれど。
檜の浴室はとても和風で大興奮した。日本人の本能か、それとも記憶の疼きかは定かではないが、とにかく安心できた。
檜の匂いと感触、濡れた木というのはどうしてか匂って触って見たくなる。
そういえば、此処で住み込みで働いていると言っていたから、もしかしてこのお風呂にも毎日はいっていたのかもしれない。
意識を頭、脳に集中させてみる。何か思い出すかもしれない。
引き金が檜のお風呂なんて何だか嬉しい。
だけど期待とは裏腹に、頭は何の反応も見せない。痛みも疼きも無い。
やっぱりそう簡単に戻せるものじゃないか。と頭にタオルを乗せた。大体病院でいろいろと記憶を戻そうと専門のお医者さんが躍起になっていたっていうのに、こんな簡単に、あっけなく蘇ってしまったらお医者さんに申し訳がたたない。
「・・・ツナさん・・・」
たった一日離れただけだけれど、環境が変わったせいでもしかしてあの人は二度と来てくれないんじゃないかと不安になる。
あの優しい笑顔が見たい。
ひばりさんは、何だか恐い。
特別嫌な事を言われたわけでもないけれど、何かされたわけではない。
あの食事をするさいのアレはどう判別していいのか分からない。記憶が無い事がまだ現実味がないのかもしれない。
ツナさんは、どうしたんだろうか。
ぴちゃん、と湯船に波紋が広がり、膝を抱えて暫くぼーっとしている。
頭の中にはツナさんの笑顔や声が反芻されている。
違和感をたくさん感じたのは何でだろう。あの人が嘘をつくとは思えないし、多分、記憶を無くしたせいだと思うけど。それ以外には考えられない
ひばりさんも同じ感じがした。
何かを隠しているのかもしれない。そういえば、記憶をなくす直後の事をあまり話したがってなかったし、もしかして知られたくないことがあったのかもしれない。
ドラマとかでよくある、本当は俺が犯人だったのさ!って、ツナさんが悪人顔して告白してきたりするのだろうか。
「・・・・」
あれ、
何だか、
ぐらぐらと・・・、
ぱしゃん、と
気になったのは頭の包帯で、頭が重くなったかのように前に倒れてしまった。
ゲームオーバーになったら、前のセーブポイントからやり直しというものがある。もしかしたら今生きている世界はゲーム世界なのかと疑ってしまった。
頭がうまく回らないのか、眼が覚めてもぼーっとしたまま天井を見上げているだけだった。
一日、も経っていないのにまた舞い戻ってしまった。薬品の匂いがする部屋。
真っ白なシーツに真っ白な天井に見える汚れ具合。これは完璧に病院の個室であることを物語っていた。首を動かすのも面倒臭く、夢を見ていたのかもしれないと思いつつ、また瞼を閉じようとしたら鼻をつままれた。
「うっ、」
「何勝手に寝ようとしてるの。」
ひばりさんがこちらを見下ろしていた。丸いパイプ椅子に座った彼は着流しではなくスーツを身に纏っていた。
Yシャツが個性的な色を放っているその姿は、連想するには簡単だった。
「えっと・・・」
「逆上せるなんて子供みたいな事しないでよ。しかもそのまま気絶して一日も眠ってるなんていい度胸してるよ。職務怠慢って言うんだよ。分かる?」
ぺらぺらとひばりさんは皮肉を言ってきました。
ずっと眠っていたせいなのか、まだ頭がぐらぐらしていて、傷口が傷むような、痛まないような。
「・・・ごめんなさい・・・」
やっぱり瞼が重くなってきた。このまま眠ってしまおうかとゆっくりと瞼を下ろしていく。
――――。
「・・・・・・・」
「寝ちゃ駄目って言ったでしょ。」
「・・・・・・・」
「ボケた顔してないで何とか言ってくれる?頭痛い?」
「・・・・・・・」
瞬きする事も出来ない。このひばりきょうやという人間はもしかしてこういう人なのかもしれないけれど、いや、まさか。
記憶が欠落した今の私は三浦ハルの事は分からないけど、今の自分からしたら今のキスはファーストキスというものなのですけど分かってないのでしょうかこの人。
平然とした態度のまま頭をゆっくりと触ってくる。
その手つきが乱暴じゃない事にほっとしつつ、この人の考えている事が分からないと悩む。
この人にとってキスとは何なんだろうと漠然と考えつつも、やっぱり睡魔には勝てなくなって瞼を下ろした。
薄く柔らかい瞼に指の感触がして、そのままぐいっ、と無理矢理開かされた。
「寝ちゃ駄目。」
「眠いのですが、」
「じゃないとまたするよ。」
何を、とはいわずもがな。
だけど病室のベッドで寝ている人間にそんな事を言っていいものなのかどうなのか、そういった道徳的なものをこの人は習わなかったのだろうか。
「気分は?」
「微妙です。」
あなたのせいで悪化したと思いますけど。
「傷は痛む?」
「多分、痛いです。」
眼に違和感があります。
「記憶は?」
「・・・・まだ。」
「・・・そう。」
聞きたいことが、ある。
一番古い記憶の所から、ずっと内側で叫んでいる言葉だった。
ひばりさんは足を組んで、ゆっくりと眼を閉じていた。眠るつもりなのだろうか。人の事を勝手に起こしておいて酷い。
廊下からはナースの人かどうか分かりませんが、歩く音がしていた。がらがらと音もするので何かを押している音かもしれない。
窓の向こうは快晴で、雲ひとつ無い青空。
窓を、開けたいな。
ちらり、とひばりさんを見る。閉じられた瞼は微動だにしていない。
ゆっくりと上半身を起こして窓の鍵がかかっていなかったのでそのまま横にスライドさせる。
気持ちいい風が入ってきた。前髪を遊んで顔を撫でて後ろに流れていく。
ひばりさんの髪も揺れていて、ぴく、と反応した。
起こしてしまったかと思ったけど、罪悪感は無い。こっちは不可抗力だもの。もしかしたら起きるかもとは思ったけど。
後ろのひばりさんはゆっくりと眼を開けた。怪訝に眉を寄せていたので窓の外を見る。
ああ、気持ちがいい。風が止む事が無い。
そんな心地いい風を感じているというのに、ひばりさんは私の腕を掴んで引っ張った。
「なっ、」
そしてそのままベッドに乱暴に投げ捨てられてしまった。頭がずきっ、と痛んだ。
意味が分からないと、抗議の声を荒げようとした。だが、上に乗ったひばりさんの顔が焦燥感・・・いや、これは恐怖、恐怖に駆られている顔をしていた。
威丈高で暴君で勝手なあのひばりさんがこんな顔するんだと、第三者のように見ている自分を追いやって、純粋に驚く。
「・・・ひばりさん・・・?」
「何してた。」
左手首を掴まれた。ぎりぎりと痛みが襲う。
「どうして窓を開けた?」
低く、怒気を孕んだ声音に声が出ない。
「何をしようとした?」
「・・・か、」
「何?」
急かすように言葉を挟まれ、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「かぜ、を・・・いれたくて・・・」
それ以上の言葉は出なかった。出そうともしたけど、それだけでもう十分だろうと思ったから。
ひばりさんはずっと左手首を掴んだままで痛かったけど、だんだんと力が抜けていった。
恐怖の色がだんだん引いていき、怠惰したように身体全てから力を抜き、私の身体に全体重をかけてきた。
重い、
「ハル」
呟きは遮られて、名前を呼ばれた。
「ハル・・・」
切ない声だった。重いしわけは分からないし、動けないし、記憶は、ないし。
今までのストレスと不安が圧し掛かっているくらいの体重の重みを沈静するかのように名前を呼ばれる。
きっとこの名前は私ではないと分かっているけど、それでも聞いてきてこっちが悲しくなるほど弱っている音だった。
「ハル・・・・、」
肩に濡れた感覚がある。熱いそれはきっと、涙だと、思う。
一日しか経ってないけど、この人泣くんだ。と失礼な事を思ってしまった。
開いた窓からは涼しい風が入る。
誰が泣いてもいい気分はしないから、泣き止んで欲しい。それが自分のせいなんて、それいがいに今此処で泣いている理由が見つからないから、きっとそうなんだろうけど。
重みを感じながらゆっくりと瞼を下ろした。
今度は邪魔しないで欲しいと願いつつ。
朝、サンドイッチをハルは作った。それを弁当箱に詰めて、一人で公園で食べようとしていた。
陽射しのいいこの日は洗濯物がよく乾くだろうと空を見上げる。
太陽がまぶしくて片手で目元を軽く覆って空を見る。光を絶対的に遮断することは出来ない、紫外線は眼も肌も汚染するらしい。
帽子を持ってくるのを忘れたと気がついた時はもう公園についた時だった。
日陰に座った時に頭がずきずきと痛みが走っていた為に気がついた。公園にいる小さな子供達は昼飯時だからもう家に帰っている。此処には誰も居ない。
静かな真夏日に似たその日は、三浦ハルは公園でサンドイッチを食べていた。
その日は暑かった。
その日は洗濯物がよく乾く日だった。
陽射しが強く、偏頭痛をおこした。
人っ子一人居ない公園は、何処か懐かしい夏休みを彷彿とさせるものだった。夏休みには子供達の喧騒がそこらじゅうにあるのだが、ふっ、と一瞬だけ消えうせる時間帯がある。
そんな時にハルはよく来ていた。
周りの子供達とは少しばかしご飯を食べる時間帯が早いため、遊びに行く時間が早いのだ。そこで一人、滑り台やブランコで遊んでいると、子供達がやってくる。
そんな幼少期を思い出していると、公園に不釣合いな黒い軍団がやってきた。
明瞭な違和感がハルに向って歩いていた。強面の男達の集団は、この公園には似合わない。
ハルは直感した。顔に傷を負っているあの人たちは、きっと裏世界の人間だと。荷物をそのままに走り出したハルを見て、男達は追いかけた。
公園から出る際に傍に止まっている黒い車の軍団に恐怖を覚える。
その日は、暑かった。
それなのにハルは体温が急激に下がっていくのを感じた。血の気が引いていく音が鼓膜に謙虚に響いた。
その日は、暑かった。
だからスーツ姿の男達も汗だくだったのだろう。追いかけて追いかけて、元新体操部の三浦ハルは体力は平均だった。だが、体育は得意だった。
壊れかけの廃墟に逃げ込んだ。その日は暑かった。それなのにその廃墟の中はひんやりとしていて、日を遮断していた。影が多かった。
階段を上る音が嫌に大きく響いた。ハルの足音とは違う、複数の足音が後ろから急かしてくる。
その日は、暑かった。だからハルはワンピースを着ていた。
その日は、いなかった。
あの人が居なかった。
三階に着いたときに後ろから男に腕を掴まれ足を止められた。
男達は言った。人質になってもらうぞと。日常を生きているならば、そんな言葉とは無関係だったのだが、いかんせん。三浦ハルは働いていた。ボンゴレファミリーの幹部の雲雀恭弥の下で。
だからそう言った事はよくあった。だが、今は誰も居ない。いつもならば傍に誰かいるか、それともそんな事件が起きる前につぶしている。
ハルは暴れた。腕を、足をばたつかせて拘束する手から一瞬だけ逃れた。
仲間がナイフを取り出し、三浦ハルに襲い掛かった。右腕を切られたハルは恐怖に涙を滲ませた。
このような状況に陥った時にとる行動を雲雀に言われていた。是が非でも逃げろ。殺せ、それか電話をして助けを求めろ、叫べ。
でも今は自ら人気の無い場所へ逃げ込んだ。一般人に迷惑がかからないように。
電話なんて出来ない。もししたとしても隙が出来て切りかかられるか、その電話を利用して雲雀を脅迫に出るだろう。
叫んでも相手を煽るだけ。じりじりと寄ってくる男達に追い込まれた。
その日は暑かった。
その日は洗濯物がよく乾く日だった。
偏頭痛を起こすほど陽射しがよかった。
冷たい廃墟の中で、陽射しが届く場所はあまり無い。その場所にハルは立った。
背中からじわりと熱が伝染して、身体が温まった。
三浦ハルは新体操部だった。
後ろにジャンプして、壊れた窓枠に足をかけてそのまま転落した。三階だ、そしてしたには運良く木があったのだが、あまり意味を成さずに落ちてしまった。
三浦ハルは落ちた。
頭を打った。記憶を失った。
沈殿したその景色を、第三者のようにして見ている自分は、三浦ハルだ。
落ちた衝撃で箪笥の隙間にキーホルダーを落としたかのように見えなくなってしまっただけだ。キーホルダーを取るには箪笥を退けるか箪笥を動かすしかない。
その行為がきっと雲雀恭弥の涙だったのだろう。
「どうして、キスなんてしたんですか?雲雀さん。」
パイプ椅子に座っていた雲雀に、そう囁きかけた。俯いて眠っているのかと思って言ったのですが、どうやら起きていたご様子です。
バッと顔を上げて驚いた顔でハルを見ます。こんな顔見るのはとても珍しい。
「君、」
「ハルの唇はそんな安物じゃありませんよ。」
本当は、動揺していた。
いろいろな事について、記憶の事もキスのことも。
住み込みの家政婦兼秘書の三浦ハルに、そんな事をしてきた事は一度だって無かったのに。
僻んでいるわけじゃない。ただ、その真意がいかなるものなのか知りたいだけ。
「どうして飛び降りたりしたの。」
「え、」
「どうしてあんな所に行ったりしたの。どうして一人で外に出たの。」
「え、」
「えじゃない。さっさと答えて。」
ギロリ、と睨まれて、三浦ハルのペースは一度もつかむ事は出来ずに流される。
「だって、・・・天気がよかったので・・・」
「天気がいいからって君は外に出るの?ふらふらして。だから眼つけられたんだよ。」
「な・・・!仕方ないじゃないですか!ああするしか方法は・・・大体ですね、ハルだって一人の時間が欲しいんです。たまには外で食べたりしたかったんです!」
「遠足じゃないんだから、しかも銃もスタンガンも持ってないし、防犯ブザーも持ってないってどういう事?喧嘩売ってるの?まあGPSつきの携帯を持っていたのはよかったけど。」
「あ・・・あの後どうなったんですか?ハル。」
「GPSの居場所に気がついた部下が駆けつけた。」
「そうですか・・・」
病院の中は恐ろしく静かで、喧騒が詰っていた。
ずきり、と痛む頭で、ツナさんはこのことを知ってて黙っていたんだと推測する。多分、この事を記憶の無いハルが知ったら不安になるだろうし、それを知って恐がるのを防いだんでしょう。
肩の湿り気がなくなっていることに気がついた。それほど寝ていたのだろうか。
「・・・雲雀さん」
「何。」
「帰ったら、何を作りましょうか。」
「・・・ハンバーグ。」
「はい。」
「仕事がたくさんあるよ。」
「はい。」
「お風呂は一人で入らないで。驚くから。」
「・・・・そういえば、ハルをお風呂から出してくれたのって・・・」
「僕だけど。」
「・・・・・・・・」
「顔赤いよ。」
「わ、分かってるくせに・・・!」
「ふぅん。そういう事言うんだ。」
和やかな時間がゆったりと流れ、会話が止まった後に、キスの事について考えたのですが、
何だか、もういいです。
雲雀さんがそれを話してくれるとは思いませんが、また泣かれると困るので、意地悪は言いません。
風がとても気持ちいいです。
今日は晴天です。
とても暑い日になりそうです。
書き出した瞬間に、あ、これは長くなると予感がした。的中しました。
なので言葉を淡白にして話を進めてみましたー。もうわけわからん矛盾たくさんいっぱーい。
いろいろとむちゃくちゃで捻りこみましたけど、そうしないと多分無理だと思ったので、長くなる。中編長編になっちゃうので。
スランプながらもすらすらと書けれましたーww
ハルを襲った連中は雲雀さん直々に噛み殺されたという事を書くべきか否かと悩んだのですがやめました。もういいかと。皆様分かっていらっしゃるかなと。
ツナは雲雀さんの想いを知ってるので、二度目の入院の際にはお見舞いにはいきませんでした。
ていうか甘々じゃない。
勘が戻りそう・・・だと、いいなぁ。
っていうかこれは読み返したくないな。消したくなる。
リクエストありがとうございましたーw
title 泣殻